新型コロナ対策において公衆衛生の視点と臨床医の視点をわけずに論じられているケースが見受けられます。
公衆衛生の視点と臨床医の視点について考えます。
Contents
sguardo.ctor氏
1000人に検査を行い、10人の真の陽性者を見つけることができたが、1人は偽陽性で不利益を被るというケースです。
(陽性率1%程度でコンタミが原因で1人だけ偽陽性となるという前提にそもそも無理がありますが)
1人の偽陽性の発生を防ぐために1000人の検査を行わずに10人の陽性者の発見を諦めるのは正しいことでしょうか?
仮に検査を行わずに10人の陽性者を放置した場合、その陽性者が原因でさらに多くの感染者を生む可能性があります。
社会全体のことを考えると1000人の検査を行い、10人の陽性者を発見すべきという考えが妥当です。(公衆衛生の視点)
ただし、1人の偽陽性者が被る不利益を社会として放置して良いというわけではありません。
偽陽性者の医学的ケアは臨床医が行う領域です。
(臨床医に責任を押し付けるという意味ではありません)
臨床医は公衆衛生の視点を持つのが難しいようです。
事前確率について
新型コロナPCR検査の大量検査に反対する根拠としてベイズの定理を用いることの不適切さを記事にしました。(公衆衛生の視点)
次のようなレスがつき事前確率の議論となりました。
ベイズの定理を用いる際の事前確率の話をしていたのですが私のブログを読まずに条件反射的にレスをされたのか、公衆衛生(疫学)の視点が皆無なのかは区別はつきませんが、彼らの視点は臨床医(臨床診断)の視点です。
臨床医の視点から事前確率について熱弁をふるって頂いているのですが、私は「臨床」獣医師ですので臨床診断の場において事前確率の計算式は存在しないのは理解できます。
臨床医(臨床診断)の視点における事前確率は次のようになってそうです。
「事前確率:計算式は存在せず、定量化はできない。相対的な物。仮定にすぎない。主観的なもの」
臨床の場においてはこれで良いでしょう。
一人の患者さんを前にしてはこの考え方は間違っていないと思います。
臨床医の視点からベイズの定理を用いて大量検査を論じる場合、次のようになります。
「ベイズの定理に基づき、事前確率の低い場合は検査を行うべきではない。事前確率が正しいかどうかわからない。事前確率はあくまでも仮定にすぎない」
この考え方では特定地域での大量検査の実施の是非についての議論は不可能ですし、主観で国の感染対策を決められたのでは堪ったものではありません。
特定の地域での大量検査の実施の是非についての議論をするためには事前確率の定量化が必要となりますので公衆衛生(疫学)の視点が必要です。
しかし、臨床医の視点で大量検査を論じているのは彼らだけではありません。
分科会
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/bunkakai/kensa_senryaku_13.pdf
分科会のカテゴリー分けを見てみます。
②a.感染リスク及び検査前確率が高い場合
③b.感染リスク及び検査前確率が低い場合
検査前確率による分類は定量化されたものではなく、相対的なものであり、分科会のカテゴリー分けは臨床医の視点であることがわかります。
臨床医の視点では検査前確率は定量化されませんので特定地域での大量検査の是非を論じることは不可能です。
ところが分科会はこの資料を基に大量検査を否定しています。
分科会の中には公衆衛生(疫学)の専門家がいないのか、いても影響力がほとんど無いのでしょう。
Taka氏
質問には直接答えず「それはベイズの定理の問題ではなくて」とはぐらかすのが最近のスタイルのようですね。
私は感染対策として有用であれば何でも行うべきという立場です。
ワクチン接種には反対ではありません。
(副反応事例への補償をきちんと行うことが前提ですが)
追記
ベイズの定理は事前確率を自由に設定できるという性質があります。
しかし、このことは仮定だからどんな仮定でも許されるということではありません。
仮定の信頼性が低ければ、その仮定を基にした結論の信頼性も低下します。
臨床医の視点で事前確率の不確かさを強調すればするほど、ベイズの定理を用いて大量検査に反対するTaka氏の主張の信頼性を毀損することに彼らは気づいていません。
steno氏は臨床医の視点から流行状況が事前確率に影響すると考えています。
流行状況を調べるのが検査であり、検査の信頼性(感度、特異度)が低い場合、流行状況はわかりません。
流行状況がわかると考える場合は暗黙的に検査の信頼性が高いと考えているということです。